森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』書評

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森嶋通夫の『なぜ日本は没落するか』を書評しています。

20世紀末に刊行された本書は日本の没落を多方面から説明しています。

リープフロッグ型経済発展によって中国が日本を追い抜いたとき、日本が自爆していたという裏面を描いています。

いまでも説得的な論点がたくさん明示されています。

森嶋通夫の予言した胡座から立てない日本

日本は1970年代のはじめに先進国の仲間入りをしましたが、2000年以降、先進国内での地位が低下しつづけています。

この原因は円安政策だけでなく、経済が成長しなかったことにもあります。中国工業化とIT革命という大きな変化に対応できなかったため、こうした事態になりました。

台湾や韓国も脱工業化の課題を追ったことは日本と同じでしたが、対中経済政策で中国の工業化とIT革命にタイアップできたのが日本の凋落とは異なる結果となりました。日本は高度成長期の経済発展に胡座をかきすぎて、すでに胡座から立てなくなりました。

おもな構成と論点

  • 人口の分裂(世代の分裂)…日本人は子供時代と大人時代を分裂したまま生きてきた。
  • 精神の荒廃…日本は底辺だけでなく頂点からも崩れる危険がある。
  • 金融の荒廃…エクイティ・ファイナンス市場の拡大により銀行業が破綻した(産業資本の金融資本への転化)。
  • 産業の荒廃…内部労働市場は極めて小さく政治学でもイノベーションが空回りした。
  • 教育の荒廃…東大は経済学でも政治学でも理論家が育ちにくく、リベラル・アートの自由学校の拡大が日本で絶望的である。
  • 社会科学の暗黒分野…日本には社会科学者が放置している不良資産が山ほどとある。

森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』書評

『なぜ日本は没落するか』の目標は、経済学・社会学・教育学・歴史学などを混ぜた社会科学領域の学際的総合研究です。

この学際的総合研究を著者は交響楽的社会科学といいました。

ふつう、大学は利益結社でも秘密結社でもありません。

森嶋通夫は日本の大学が閉鎖的な点を指摘します。

日本の大学は教員個人主義に頼りながら社会貢献をめざす機関になっています。つまり、社会組織や社会集団が個人主義にもとづいているという変な構造をもっているのです。

21世紀の20年間、大学は地域社会への貢献をアピールしてきましたが、ゼミ担当教員たちがゼミ生をつれて地元商店街をウロチョロするという遠足でありつづけました。

日本の大学教員や研究者が自分の研究領域や学問領域を守っているかぎり社会貢献はできないと、森嶋は考えました。

著者が交響楽的社会科学を提案した理由は各学問分野のタコツボ性と不要性を打開したかったことにあります。

各章の要約

第1章では、高田保馬の「第三史観」「社会学的史観」にもとづき、人口という土台の動きから社会変動を予測します。

著者は高田保馬の論点を参考に「人口史観」を展開し、住民数だけでなく住民の質も考察している点が斬新です。

単なる人口数なら経済学の担当になりますが、住民の質となると教育学の部門ですから、その点の歴史的考察も進めていきます。

第2章の「人口の分裂」

第2章の「人口の分裂」では、戦後教育を受けた人たちのタイミングに注目して、日本の人口を複数パターンに分けます。

日本の戦後教育は次のように区分されます。

  • 大人…集団主義・家柄主義・縁故主義・集団差別主義を固執
  • 子供…個人主義・成績主義・普遍主義(縁故的でない)・平等主義

この区分にもとづいて、子供時代と大人時代を分裂したまま生きる生活を日本人が続けてしまったことを著者は指摘します。

日本社会は、子供から大人に成長する社会ではなく、子供か大人かを選択する社会になってしまいました。成長ではなく選択の社会なのです。

日本人が分裂した人生を送らざるをえなくなった理由として、著者は戦後日本の教育史に欠けた2点をあげます。

  • 教育を元に戻す保守的勇気の欠如
  • 大人社会を新教育に適うものに改変する進歩的勇気の欠如

つまり、戦後日本は戦前の教育に戻そうともせず、また大人を新社会に適合させようともしなかったのです。

温故知新も果たさず適応すらも拒んだ事実からみて、戦後日本の教育史って存在したのでしょうか…。野放しのカオスは歴史といえるのか…。

とにかく、本書が書かれた20世紀末の日本社会は次のように少し整理されました。

1990年代、政財界の主力だった戦前世代・戦中世代が去りました。

そして、1994年以降、日本社会は三つの部門に分裂しました。

  1. 伝統的行動様式で動くことしかできない政界
  2. 新制教育を受けた官僚からなる行政部門
  3. 過渡的教育を受けた経営上層部と戦後教育だけを受けた一般社員クラスが混在するビジネス社会

3点目の過渡的教育を受けた経営上層部は儒教的エートスとアメリカ的個人主義をごちゃ混ぜにした教育を受けてきました。こういう人たちは2020年代になってもまだビジネス社会に存在します。ただ、かなり減ってきましたが。

野放しのカオスという教育史をすすんだ日本。

人口の質はどうなったのでしょうか。

第3章「精神の荒廃」

第3章「精神の荒廃」では、日本史をふりかえり、日本社会は頂点から崩れていく危険性をもつと指摘しています。

日本社会は長期間にわたり儒教的エートスを土台にしてきました。戦後教育だけを受けてきた学生たちや子供たちが社会の頂点に立つ21世紀中頃、矛盾を抱えきれなくなり日本が崩壊すると展望します。

体感では、マイルドヤンキーが拡散したり道路族や敷地族が湧出したりした2010年代に日本社会の崩壊がはじまりました。

第3章は予測や展望を強めた部分で、歴史から日本社会を紐解くスタンスの本書では、やや浮いています。

第4章「金融の荒廃」・第5章「産業の荒廃」

第4章「金融の荒廃」と第5章「産業の荒廃」では、著者の経済学知見を歴史分析と現状分析に応用して、鋭い論点がたくさん出てきます。

1980年代初頭に銀行業の範囲(融資・借入市場)と新株発行の範囲(エクイティ・ファイナンス市場)のバランスが崩れました。

銀行に支払う利子よりも株券の時価発行で支払うほうが、企業にとってかなり安くなったのです。産業会社は銀行業の仕事をやりはじめ、銀行からすると市場を荒らされたことになりました。

このバランスの崩壊を著者はバブル経済の悪弊と延べ、産業資本が金融資本となることに関わる事態だったと考えます(産業資本金融資本への転化。この考え方はナイスです。経済の長期的な流れ(経済史)のなかに同時代のバブル経済をうまく置きなおしています。

産業資本の金融資本への転化がなぜ起こるのでしょうか。

とくに製造業部門(第2次産業)の企業は自社商品の製造販売によって利益を拡大するものです。利益は社会的なものか自社だけのものかはともかく。

なのに、どうして製造業銀行業の仕事にまで着手したのでしょうか。

マルクス経済学では説明が複雑になるわりに、誰も理解してくれない文章が続きます。

ここではソースタイン・ヴェブレンの説をご紹介するほうがはるかに分かりやすいです。製造業などの企業には貢献的な動機よりも金銭的な動機が強く、企業は産業の効率化を促進せずに阻害するものです。

株式の時価発行によるエクイティ・ファイナンスが拡大し、企業には新しい問題が発生しました。増加した株式をどのようにして安全な株主の手中に留めつづけるかという問題です。

旧財閥系諸会社が財閥を横断して株式をもち合う現象が1990年代に発生。財閥の合併は銀行業だけに留まらず、エクイティ・ファイナンスにふみこんだ製造業者たちにも及びました。

ところが1990年代の日本では、企業の新段階にイノベーションが出てこず、新産業や新技術の創出をできませんでした。ここに、キャッチアップ型工業発展だけしかできなかった日本の弱点がありました。

企業は新段階に入ったものの社内体質が古く、イノベーションを生み出す可能性は、企業内にも国内にもありません。

経済学と経済史をたくみにミックスさせた第4章と第5章のあと、著者は第6章「教育の荒廃」を論じます。

第6章「教育の荒廃」

1990年代に日本でイノベーションが出てこなかった理由を高等教育の停滞に求めます。東京大学を例にリベラルも理論もなかったと断言します。

そのあと草の根に降り立って、著者は2つの観点から日本の教育を改革する提案をします。

  1. 平等の名において選別をなくすことは子供に対する愚民化政策
  2. 高学歴化は実質のともなわない利益ゼロの不良投資

この2点をまとめますと、日本の教育が不幸だった理由は平等に高学歴になったことです。平等な高学歴化というとかなりペラペラな紙の印象です…。

著者は日本社会が経済外的な利益を失ったことを憂慮しています。経済的な利益だけでは政治家も国民も貧しくなります。

経済外的な貧困とは、精神的な貧困文化的な貧困などです。これらの貧困は格差社会がどうのこうのという経済的な貧困よりも広くて深いものです。

日本社会の砂漠化現象です。

第7章・第8章:日本救済の提案

第7章第8章は日本救済の提案です。

まず、日本の砂漠化を止める手段は利己心と利他心をおさえ、幼いナショナリズムから抜け出すことです。

ついで、歴史をふりかえり自分を反省することです。

いい大人が生まれるような史観を求めて、教科書を試行錯誤的に書き換えるという愚挙を歴史家はなすべきではない。歴史家のすべきことは、「真実」を求めて苦闘することである。そして子供たちは真実に直面する勇気を歴史から学ぶことである。森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、1999年、187頁

そのうえで、著者が晩年に構想しつづけた東北アジア共同体案が提起されます。

来世紀は巨大合衆国の時代である。アジアが共同体の合衆国化が問題になる時にはアメリカはもちろんのことヨーロッパにも合衆国ができている。この時にアジアが合衆国をつくれない状態にあるならば、アジアの人々は悲惨である。だから私たちのするべきことは、彼らが合衆国をつくりたいと思うならば、つくれる状態にしておくべきことである。森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、1999年、192頁

巻末の「社会科学の暗黒分野」はこの書評の冒頭にもっていきましたので、ここでは省略します。

推薦する理由:交響楽的社会科学をめざした本

『なぜ日本は没落するか』の目標は、経済学・社会学・教育学・歴史学などを混ぜた社会科学領域の学際的総合研究でした。この学際的総合研究を森嶋通夫自身は交響楽的社会科学といいました。

著者は経済事情だけでなく教育事情や世代論もふまえています。そのうえで日本の没落したあとの持ちなおし方を考えました。経済学者にはない広視野な捉え方です。

読みやすい文章で書かれていて、著者の勢いも感じられる段落構成になっています。

21世紀を生きる好奇心旺盛な方々に読んでほしいと思います。

ふつう、大学は利益結社でも秘密結社でもありません。

学問を蓄積して、そのつど社会公開していく義務があり、長年、欧米諸国の大学は数百年にわたり国家、地域社会、市民社会に貢献してきましたし、20世紀中国の大学もそうでした。

先進的な大学組織をもつこれらの国々では、大学教員個々人よりも社会全体を優先させる集団主義にもとづいています。

補論:教員の個人主義で社会貢献をめざす日本の大学

森嶋通夫が憂えた日本の大学は、20世紀どころか2020年代の今でも閉鎖的です。

これには、社会的に研究蓄積も収集データもデジタル公開が遅れたという20世紀末日本のガラパゴス的な現実があります。

この遅延現象は2010年代になっても変わっておらず、せいぜいが所有資料をデータベースにしたとか、紀要論文をデジタル公開したとか、その程度にすぎません。

21世紀の20年間、大学は地域社会への貢献をアピールしてきましたが、ゼミ担当教員たちがゼミ生をつれて地元商店街をウロチョロするという遠足でありつづけました。

日本の大学は教員個人主義に頼りながら社会貢献をめざす機関になっていて、つまり社会組織や社会集団が個人主義にもとづいている変な構造をもっています。

閉鎖的なタコツボ大学の現状を打開するために、森嶋通夫は次のような言葉を述べています。

暗黒部分を明るくするには、まずわれわれは暗黒分野に起こった各事件ごとに歴史的な研究を行なわねばならない。国際的な問題の場合には、関係諸国の研究結果を突き合わせて、前説で強調した共同体理解に達する努力をする必要がある。(・・・中略・・・)日本社会には社会科学者が放置している不良資産が山とあるのだ」森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店、1999年、204-205頁

この観点に関わり、経済史ドットコムでも交響楽的社会科学を実践しています。

ご関心のある記事がございましたら、ぜひご覧ください。

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