2019年3月5日の日記です。
読み直してみると、コロナ禍でカフェめぐりを楽しんでいないことに気づきました。
その分、妻と一緒に自宅カフェ(おうちカフェ)を楽しめたと思います。コロナ禍の前は、全人類のテンションが高かったことを痛感しますね。派手も地味も人の性格だけじゃなく、人それぞれに廻りまわってきます。
さて、一つの本を手がかりに、コミュニケーションの有無やあり方からカフェめぐりを考えてみます。
カフェ文化とコミュニケーション(2019年の日記から)
今日は出勤してカフェ関係の本を図書館から借りてきました。
この数年間、妻や学生たちとカフェめぐりに行きまくってきましたが、京都市の四条だけでもカフェは全部制覇できないほど乱立しています。大阪も然り。
そこで、カフェの歴史や現状を簡単に把握しようと思って、今日は図書館でまとめて借りました。
このページでは、借りたうちの1冊、山納洋『つながるカフェ:コミュニティの〈場〉をつくる方法』をとりあげ、昔の喫茶店や今のカフェを簡単に述べて、歴史的なノスタルジーに少しハマってみます。
借りた本は写真のとおりです。
カフェと喫茶店:後者全盛の時代に生まれた悲しさ
インターネットでカフェの現状を調べていると、ふとカフェと喫茶店には法的な違いがあることを知りした。
「食品衛生法」や「食品衛生法施行令」を根拠に、飲食店営業(カフェ)と喫茶店営業(喫茶店)とに分けられます。
ただし、慣用的な違いはありません。
上の記事や今日借りてきた本をもとに簡単にまとめると、カフェと喫茶店には次の違いがあります。
- カフェ…飲食店営業に区分され、調理できる。アルコール類の飲料品を提供できる。
- 喫茶店…喫茶店営業に区分され、加熱できる。アルコール類の飲料品を提供できない。
日本では1990年代まで喫茶店が流行っていて、カフェが勢いをもちはじめたのは2000年代になってからのことです。
私が20代の青春時代を過ごしたのは1990年代…。
今ほどコーヒーにこだわった店は少なく、料理もレンジでチンばかりでした。ですから、生まれた時代に大損した気分です。
山納洋『つながるカフェ:コミュニティの〈場〉をつくる方法』
この本からパラパラめくりはじめました。
著者は大学卒業前後にカフェで知り合った人たちと楽しく過ごし、音楽や文学などを客から教えてもらったそうです。
その詳しいエピソードが前半に書かれています。卒業後は大阪ガスに勤め、同社の推進する地域活性化のプロジェクトを担っていきます。その実践が後半に記されています。
したがって、著者にとってカフェは学ぶ場から創出する場へと変わっています。場の大切さが説得的に伝わってくるのは著者の若い頃のエピソードの方です。
印象に残った点
この本で面白かったのはやはり前半のカフェ経験です。
著者は大学を卒業して就職してから、大阪府堺市のカフェに入り浸っていたそうです。そのカフェでロックのレッド・ツェッペリンを客から勧められたら手にメモして帰ったという話が書かれています。
そのような経験は私もたくさんあって、懐かしさと共感を持ちました。
この30年でシルバー・カフェが変容
著者はアート・教育・出会いなど色んな使い道のあるカフェを作ろうと今もプロジェクトを色々立ち上げています。
たとえばシニア向けカフェ(シルバー・カフェ)、アート・カフェなどなど。でもちょっと、あまりにも今風で展望がない…。
本書に限らず最近の日本の惨状を思いおこすと、高齢者向けカフェの存在自体が惨状だと感じます。
この30年間でシルバー・カフェが変容しました。
昔の喫茶店やカフェでは同じ客として高齢者が熱弁して若者がいろいろと学べたものです。
しかし、今の高齢者はサービスを受ける側に徹しています。また、そういう風に高齢者の役割がバッチリ決まっています。
カフェの存在する意義
著者はカフェには2つの存在意義がある、あるいはカフェを使う客には2通りいると書いています。「楽しさ」を求める客と「意味」を求める客です。
前者は楽しければそこに留まり続けるけれども、後者はそこに行く意味を失えば、場から遠ざかっていく。(同書157頁)
著者は「 意味」を見出し続けることのできる場としてカフェを作りだしていきたいと考えています。
そのプロジェクト事例が10点ほど本書後半に記されていますが、ややイベント感が強い点に引いてしまいます。
地域活性化は都心部との関係で左右されるものですから、カフェを誘致するという地域内だけをみた発案では実現しようがありません。
私にとっては学生たちとカフェに行くこと自体がイベントになっていて、カフェには楽しみがなくても意味がなくても良いという面があります。他方で学生たちに喜んでもらうには美味しいカフェが大切ともいえます。
難しいですね…。
現在のカフェはディスコミュニケーション
著者は現在のカフェを次のように捉えています。
お気に入りのカフェに一人で行って、マスターとしやべるでもなく、買ってきたレコードのライナーノーツを読み、読書して、コーヒーの味を楽しみ、お店の雰囲気を楽しんで帰る……。今流行っているカフェって、ある意味ほっといて欲しい人たちのディスコミュニケーション空間として機能していますよね。(同書179頁)
ディスコミュニケーション化したカフェという捉え方に半ば同感します。
逆に、コミュニケーションが必ずカフェに必要だという風にも思いません。
今のカフェで問題なのは、むしろコミュニケーションかディスコミュニケーションの二者択一を強く迫られていることにあるのではないでしょうか。
コミュニケーションとディスコミュニケーションが交錯すれば良い
ある客が特定のカフェに行っても、ある日にマスターや客と話しある日には話さないということがあっても良いのです。
1990年代まで、そういう選択肢がレンジでチンの喫茶店にもまともなカフェにもあった気がします。
この点を著者も感じてはいるようです。
オルタナティブな価値観を育むことができる場所(同書180頁)
をカフェの存在意義だと考え、
経済合理性を過度に追求するモチベーションからは生み出されにくくなってきています。(同)
とも述べています。
ただ前半の経験談と後半の経験談では立場が違うのがネックになって、本書全体としては何をやりたいのかなぁという風に感じます。
コミュニケーションの有無から考えるカフェ文化
客同士で教えあう・勧めあうのがカフェの生命力かなぁと思いました。
店長だけでは不特定多数の客を相手にトークの限界がありますから、客同士が交錯してトーク幅が広がることでカフェは盛況するのだと思います。
ただし、繰り返しますがディスコミュニケーションも必要です…。
私自身は楽しさと意味の両方を兼ね備えるカフェがほしいと思います。
他方で、知り合いとしゃべることの楽しさと意味が満たされれば、カフェ(やレストラン)に楽しさも意味も必要ありません。少々の美味があればよい…(堂々巡り)。
食品衛生法
食品衛生法は1947年に施行された法律です。
次の2点を目的にしています。
- 食品の安全性を確保するため、公衆衛生の点から必要な規制や措置を講じる。
- 飲食に起因する衛生上の危害の発生を防止し、もつて国民の健康の保護を図る。
食を取り巻く環境の変化や国際化などに対応して食品の安全を確保するため、2018年に法改正が行なわれ、2021年に施行されました。
「食品衛生法」が規定している点は、営業活動を行なうためには都道府県知事の許可を受ける必要があるということです。
ほかに営業面では、届出営業者と食品衛生管理者を区別すること(兼用可)、都道府県知事との連絡を密にすることを細かく規定しています。
カフェと喫茶店の違いを具体的に考えるには、「食品衛生法」をもとに1953年に制定された「食品衛生法施行令」に依拠します。
この施行令の第35条「営業の指定」は、食品製造業や食品販売業に該当する営業基準を細かく指定しているのですが、1項目だけ飲食店営業もとりあげています。
しかし、2021年に施行された現行の食品衛生法では「飲食店営業」という用語だけ掲載され、他の項目とは異なって説明がありません…。
まとめ
- 客同士で教えあう・勧めあうのがカフェの生命力
- ディスコミュニケーションも必要
- 楽しさと意味(美味)を兼ね備えるカフェがほしい
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