森本六爾と私:アイデンティティの歴史

バーチャル経済史
この記事は約12分で読めます。
記事内に広告を含みます。

「籌敏になるな、六爾になれ!」という祖母の期待が遺言と錯覚したまま私の心に残り続けてきました。

「六爾になれ」という祖母の言葉に縛られ、森本六爾のように偉大になることばかりを考えて、アイデンティティ形成に難儀しました。この経緯を述べています。私の10代・20代の思い出です。

スポンサーリンク

「反骨の考古学者 ROKUJI」

森本六爾が通った唐古鍵遺跡。奈良県磯城郡田原本町大字唐古。2019年8月11日に撮影。

2019年7月6日、NHKのETV特集でドラマ「反骨の考古学者 ROKUJI」が放送されました。

主演は岩井勇気(ハライチ岩井)と伊藤沙莉、語りは井上二郎です。

このドラマは私の大叔父(森本六爾)をモデルとしたものです。

六爾は奈良県出身の考古学者で、戦前期に日本の原始農耕が弥生時代から開始されたという説をはじめて唱えた者として有名です。

小説には松本清張「或る小倉日記伝」の短編集や林芙美子の「パリ日記」などに登場する変わったオッサンでした。

ドラマを見られた方は、私の幼少期に森本六爾がどれほどのプレッシャーになったか、私の書く六爾はドラマとどこが同じでどこが違うかなど、思いをめぐらせて読んでいただければ幸いです。

スポンサーリンク

反骨の考古学者 ROKUJI

2019年7月から8月にかけて、両親や知人たちからNHKドキュメンタリー番組(ETV特集)にて『反骨の考古学者 ROKUJI』が放映された事実を知りました。

2019年の秋に私は研究書を刊行することになっていました。また、初めて放映された7月6日が私の誕生日の1日前だったこともあり、六爾をとりあげたドラマが放映されることに少し血が騒ぎました。

ツイッターでみたかぎり、このドラマの評価が高く、森本六爾の文体や生き様が素晴らしいなどの感想がいくつも寄せられていました。六爾役を演じたハライチ岩井氏や妻ミツギ夫人役を演じた伊藤沙莉氏の演技も高く評価されています。

森本六爾は私の父方祖父の兄にあたる奈良県出身の考古学者です。

六爾に心酔された方のお一人がサイト「六爾の博物館」を運営されています。最近は更新されておらず、文字化けするかもしれませんがリンクを貼っておきます。

「反骨の考古学者 ROKUJI」の感想

次の写真は森本家一族の写真です。

1930年代前半、森本六爾(私の大叔父)や森本籌敏(私の父方祖父)たちがある機会に集まった家族や手伝いさん・女中さんの集合写真。ドラマ『反骨の考古学者 ROKUJI』にも一瞬だけ取りあげられました。

ふだんは住み込み女中さんたちも含めて15人ほどの家族だったとか…。私の祖父母は同居していませんでした。

ETV特集「反骨の考古学者 ROKUJI」にとりあげられた写真(1930年代前半)。森本家一族と手伝いさん・女中さんたちの集合写真。ボカシの入れていない5名は、左から森本六爾(長男)・妻のミツギ、森本猶蔵(父)、森本籌敏(次男)、妻の静江。

5人以外にはボカシを入れました。

ボカシの入っていない5人は左から、森本六爾(赤ちゃんを抱える女中さんの右隣り)、その妻ミツギ夫人、中央が六爾・籌敏らの父である森本猶蔵、そして森本籌敏(私の父方祖父)、その妻静江(私の父方祖母、のち離婚)。

私自身は「反骨の考古学者 ROKUJI」を2020年1月16日の再放送で見ました。

まず、ドラマの一部に一人芝居のような時間が設けられていたことに驚き、よく出来ているなぁと感じました。

ドラマの中に一部でも芝居のようなものがあるとつい見とれながら聞き入ってしまいます。

つぎに、内容面で驚いたのはミツギ夫人の強さです。

ミツギ夫人の強さ

森本六爾が半年で留学を切り上げてパリから帰りたいとの手紙にたいしてミツギ夫人は、せめて語学だけでも習得してこいと強く励まします。

そのくだりが面白く、六爾の弱い半面が露呈していたように思います。

六爾のようにコンプレックスやプライドが大きく、他方でそれに見合った努力を積み重ねている人にも、どこか弱さはあります。それが垣間見られた手紙でした。

森本六爾の研究の凄さ

私からみて森本六爾の研究の凄さは弥生原始農耕説の大きさや深みだけではなく、土器を中心に、それを構成する社会経済や労働状況にまで目を向けた点にあります。

一つ一つ論文や本から六爾の観点の鋭さを述べることは私の力量を超えていますが、ドラマの中で出てきた場面、数人が船に乗っている場面ですね、これは土器から読み込んだと放映されていました。

ああいう観点は鋭くて、きっと当たっていると思わせる節があります。

六爾節とでもいうべきでしょうか…。

或る「小倉日記」伝」~「断碑」

森本六爾がかなり有名になったのは松本清張の短編小説集『或る「小倉日記」伝』でモデルになったからでしょう。

同書は、近代日本で異業をなしたアウトローたちの短編集で、森鴎外を題材にした同名小説「或る「小倉日記」伝」が一番有名。森本六爾は「断碑」のなかで木村卓治として登場します。

松本清張の短編小説集『或る「小倉日記」伝』
Bitly

森本六爾の友人や弟子たち

森本六爾夫妻顕彰之碑。奈良県桜井市にて2013年8月15日に撮影。

よく知られるように、森本六爾は大学に通っていない在野の考古学者です。

それでも友人や弟子たちには恵まれていた方だと思います。

たとえば長野県の考古学者・郷土史家の藤森栄一。彼は六爾の伝記を2冊ほど書いています。

姫路市・播磨地方の郷土史家だった浅田芳朗もまた1920年代に六爾に師事し、伝記を残しています。

また、京都大学名誉教授の小林行雄は1920年代に六爾と考古学の議論をいろいろしたと聞いています。

森本六爾と私:アイデンティティの歴史

奈良県橿原市南浦町から高市郡明日香村を望む。2017年2月12日に撮影。OLYMPUS OPTICAL CO.,LTD u10D,S300D,u300D, ƒ/5.2, 1/100, , 17.4 mm, ISO 250

私は奈良県橿原市に生まれ育ちました。

小さい頃から両親が共働きでした。

私の祖母「静江」

私の勉強を見てきたのは、主に1907年生まれの祖母静江でした。

祖母は私が17歳のときに亡くなりました。

祖母静江は、よく万葉集に出てくる天香具山の麓、南浦町元地主を実家とし、橿原市と隣接する桜井市元地主の森本家次男、籌敏と結婚しました。

ですから籌敏は私にとって父方祖父にあたる人物です。のちに静江と籌敏は離婚しているので、私は生まれた時から静江の姓を名乗ってきました。

ちなみに、静江という名前は、松本清張の「断碑」にて木村卓治(森本六爾のモデル)の妻の名前として出てきます。松本清張の調査力に脱帽です。

私と森本六爾の関係

先に掲載した白黒写真をカラライズしたのが次の写真です。

ETV特集「反骨の考古学者 ROKUJI」にとりあげられた写真。森本家一族と手伝いさん・女中さんたちの集合写真。ボカシの入れていない5名は、左から森本六爾(長男)・妻のミツギ、森本猶蔵(父)、森本籌敏(次男)、妻の静江。

森本六爾は森本家の長男でした。

六爾、籌敏、以下約10人と続く、近代家族の一典型、ビッグ・ファミリーでした。

森本家は戦前に地主でしたが、戦後の農地改革でサラリーマン家庭へ転換しました。

六爾は速くに夭折しましたが、籌敏らも含め多くの息子たちが戦前・戦後を通じて、働くことを知りませんでした。

働かずに田んぼばかりを掘って働かないという意味で六爾も例外ではありません。

私の祖父「籌敏」

私の父方祖父である籌敏、つまり六爾の弟は、将棋と競輪で家と裁縫工場を潰し、やがて静江と離婚します。

私は小学生の頃から、祖母静江から「お祖父ちゃん(籌敏)になるな、六爾になれ!」と言われ続けてきました。

森本六爾の奇抜な人生

森本六爾は大学へ行っていないので、

  • アマチュア考古学者と言われる悲哀
  • 32歳で結核による死亡という悲哀
  • 日本史教科書にほぼ載ったことが無い悲哀

こういう事実が親族一同に浸透してきました。

20代になってから私は、祖父(籌敏)の兄だった六爾について調べはじめました。

調べれば調べるほど、どんどん距離が遠のくばかりでした。

最初の著書は20代半ば。結核のために32歳で亡くなるまで、少なくとも論文100本を書いていたと記憶しています。

六爾は一時期、パリの考古学に憧れ、1920年代にパリへ私費留学しました。私費の出所は小学校教師をしていた妻ミツギの給料でした。

ところが、なんと留学先のパリで六爾は作家の林芙美子と恋に陥ります。別れてからは「別れても毎朝アパートに花束を届けにくるヘビのようにしつこい男」と林のパリ日記には書かれています。

林との恋については「森本六爾と林芙美子、巴里のめぐり逢い: ケペル先生のブログ」に詳しいです。

そんな有様で、留学での研究成果は少なかったといくつかの伝記は記してきました。

「六爾になれ!」の縛りと私の大学時代

森本六爾の研究生活だけでなく恋愛沙汰まで知った私は勉強と恋と、どちらで六爾をめざすべきか迷いはじめました。

アイデンティティの歴史に迷いが出たのです…。

私の通った地方公立F大学、留年の始まりです。

地方公立F大学の経済学部に在籍した8年間の前半4年間、私は自分の人生に悩んだり自暴自棄になったりしました。この時期は、ほとんど大学に通わず、学習塾や家庭教師のアルバイトで得た給料をほぼ全て図書購入に充てて、読書をしました。

「六爾になれ!」という祖母の言葉が強い圧力となり、毎月10万円は図書購入に充てると決め、教育関係のアルバイトを増やすという悪循環が続きました。

4年生になっても就職活動をしない私を両親が心配したため、秋頃に正直に私の思いを伝え、話しあったところ「せっかく入学したのだから、まずは卒業を目指し、大学院進学はその間に考えれば良い」と肯定的に理解してもらえるようになりました。

そして、後半の4年間に頑張って通学するよう決意しました。

5年生・6年生の時は通学に馴染めず、思ったように単位は取れませんでした。

7年生・ 8年生になると、多くの単位を取得しました。

8年生の夏、地方公立F大学の経済学部の大学院入試も合格し、ようやく自分でも納得のいく人生を歩めると確信しました。

しかし、必修である一般教養の1科目を落とし、在学期間満了のため満期退学となりました。それでも私は大学院進学に執着しました。

そこで、地方公立F大学の先生方や職員方々に相談した結果、学位授与機構(現在は「独立行政法人 大学評価・学位授与機構」)からの経済学学士取得を目指すのが無難という道を教えてもらいました。

そのために、授与機構の指摘した不足科目を埋めるために、東京都内の私立大学で通信教育課程の利用を考えました。

授与機構が不足を指摘したのは、私がF大学で落とした教養科目ではなく、なんとF大学では足りていた経済学関係の2科目でした。

組織によって想定する教育カリキュラムは多少ずれることも知りました。

学士取得までの形式的な経緯

学位授与機構の役割ですが、いわゆる大検(中卒者の大学入学資格検定)の大学院版と考えると無難です。

学士を持っていない者に対し、当機構が定める所定科目・単位数を満たした上で検定試験に合格すれば、学士を発行するというものです。

具体的な学生像としては、飛び級で大学院へ行った大学生(大卒にならない)、または短大卒で就職しながら通信教育で専門課程の単位数を多く取得した学生(または社会人)等が念頭に置かれます。

お恥ずかしながら、当時、当機構の方に伺いましたところ、私のように、特定の大学に8年間も在籍したうえで退学し、さらに学士を取得しようとした事例は極めて珍しいとのことでした。

先ほど触れたとおり、地方公立F大学経済学部で取得した科目と単位について、学位授与機構に審査をお願いしました。当機構の基準では一般教養科目はクリアしており、逆に専門科目(経済学)が2科目足らないと指摘されました。

そのため、学習塾で勤務する傍らで、法政大学の通信教育課程(科目等履修生)に在籍し、専門の2科目を習得しました。通信教育での微かな思い出は、工業論という科目のレポート指導で、「抜群によくまとめていて驚く」と添削されてきたことです。

また、定期試験には当時近所だった短期大学に自転車でえっちらほっちらとこいで行ったことです。

とにかく、1999年に2科目の定期試験に合格し、同1999年12月に行なわれた学位授与機構の検定試験を受験し合格しました。これによって当機構から学士(経済学)を発行していただきました。

同年度(1999年度)8月に行なわれた地方公立C大学大学院経済学研究科修士課程も合格していましたから、

そんなこんなで、2000年4月の地方公立C大学から修士課程入学を許可して頂くにいたります。

みなさんへのメッセージ

「籌敏になるな、六爾になれ!」という祖母の期待は、遺言と錯覚したまま私の心に残り続けてきました。

2019年に刊行した本のなかで、浅田芳朗つながりで森本六爾にも触れました。史実として触れることで、私は六爾から解放されたと思えました。

最後にみなさんに伝えたいのは、人に期待をするということは、時に人を縛り、路頭に迷わせることになるということです。

このサイト「経済史ドットコム」のポリシーに「我思わぬ 故に我なし」、つまり、自我を捨て自信も捨てることで新天地を開いてほしいと書いているのは、この記事に書いたような経緯も反映しています。

無事に大学院へ進学した私は「六爾になれ」という祖母の言葉に縛られ、何かを探る研究ではなく、誰かになる(六爾のように偉大になる)ことばかり考えて、研究テーマを設定することに難儀しました。

以上のことから、私は大学を学問の場所と限定することに反対です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました