この記事では、ルイス転換点(中所得国の罠)からみた日本のアパレル産業について、丁寧に説明します。
前提となる認識は次のとおりです。
- 日本のアパレル産業は1960年代にルイス転換点を越えた
- ルイス転換点を越えた日本のアパレル産業は製品調達を外国へ依存した
ルイス転換点(中所得国の罠)からみた日本のアパレル産業
ルイス転換点(中所得国の罠)
1970年代から1990年代までの日本のアパレル産業は、絶頂期から衰退期へと変わりました。
高度成長期を通じて国民所得は上昇しましたが、所得上昇は労働者の賃金上昇も意味しているのですから、長期的にみれば衰退がはじまったといえます。
賃金が上がると経済成長は停滞します。
旧産業または農村部から余剰労働力が新産業または都市部へ流れてくると、工業化が進展して経済成長がすすみます。都市部の工業化によって、農村部の余剰労働力が低賃金で都市部へ移動するわけです。
しかし、農村部の余剰が解消されると労働力の供給が止まります。都市部の労働者の数が増えないので賃金が上昇します。
この転換点をルイス転換点(中所得国の罠)といいます。
都市部で労働者が増えることもあると、ルイス転換点を批判する考え方もあります。たしかに、ルイスの説は農村と農業、都市と工業をセットに考えるため甘い点があります。
この批判も考慮してルイス転換点をとらえ直すと、経済発展した国では賃金が上がって発展が鈍くなるという説になります。
都市部(というか工業)の賃金上昇が一国の経済発展の鈍化とセットとみなすルイスの説は経験的で説得的です。
ルイス転換点を越えたあと、都市部では、賃金上昇・労働力不足・インフレーションなどが発生して経済成長が鈍化します。
20世紀までのグローバル経済史に当てはまる考え方です。
今の中国のようにルイス転換点を越えても経済成長を続ける重要な例外もあります。ルイス転換点を越えても経済成長をつづける中国の事例は、野口悠紀雄『リープフロッグ:逆転勝ちの経済学』第1章に詳しいです。
1970年代日本のアパレル産業
富沢このみによると、1970年代に衣服輸入が急増すると同時に日系企業の外国進出が開始されました。
当時の進出先は韓国・台湾が多く、商社やアパレル企業の自社工場が中心でした。また、委託契約を結ぶ場合もありました。
対日輸出国・対日輸出地域では韓国と台湾がそれぞれ1位と2位を占め、3位から5位までが香港・イタリア・中国でした(1978年現在)。このうち、イタリアは高級品を日本へ輸出し、他の4ヶ国・地域は実用品を輸出していました。
つまり、1970年代日本のアパレル産業は、実用品衣料の調達を外国生産拠点に依存しはじめていたわけです。
『工業統計表』によると、ニットも裁縫製品も、製造品出荷額等(生産額)は1990年代前半まで増加しました。
また、事業所数及び従業者数は、ニットで1970年代初頭、裁縫製品で1980年代初頭に飽和状態となりました。
したがって、冨沢このみの指摘した1970年代のアパレル製品の輸入増加とアパレル企業の外国進出が国内衣服産業へ直接の打撃を与えたわけではありません。
しかし、1990年代におこったアパレル産業の衰退の理由に、アパレル製品の輸入依存を挙げることができます。
戦前日本の衣服調達
戦前日本の衣服調達は、家事労働(無償労働)と有償労働が競合していました。
この意味で、産業化及び市場化の方向は、家事労働で生産される衣服の商品化にありました。
1930年代に衣服の商品化は種類的に網羅されるようになりましたが、量的には低いままでした。
戦後アパレル産業の移転とルイス転換点
しかし、衣服商品化が大きく進展した戦後、とくに既製服化率がほぼ100%に達した1970年代に国内市場の拡大が見込めなくなりました。
他方、韓国・台湾への裁縫工場への移転が開始され、同時に輸入は急増しました。
この移転は、衣服調達の方法において、既製服化率を下げて家事労働に依存する方向へは進まず、既製服化率を下げずに外国生産に依存する方向へ進んだことを示しています。
この移転は、アパレル産業に従事する日本国内労働者の賃金上昇が一つの大きな要因でした。
日本アパレル産業のルイス転換点は1960年代と考えられます。
1960年代に賃金が上昇し、賃金水準の高い大都市が最大の産地となりました。
1950年代の日本では出稼ぎが多かったのですが、1960年代になると逆流現象が生じ、九州地方や北陸地方などは関東地方や近畿地方のアパレル業者の下請が進みました。
田舎には再生産された低賃金労働力がまっていたからです。しかし、それでも日本全体の賃金が上昇していったため、アパレル産業はだんだん外国依存を強めました。
外国労働者の低賃金によって、日本では家事労働による衣服調達をほぼゼロの状態に維持することが実現しました。
つまり、戦後日本ではルイス転換点を越えた1960年代以降、衣服調達を外国へ依存するようになったわけです。
20世紀末日本のアパレル産業
20世紀末日本では、有償労働と無償労働とを問わず、ミシンの家庭内稼働は減少しました。裁縫教育、裁縫労働、ミシン家庭内稼働の減少は、総じて一国内の衣料品購買力の羅針盤となりました。
また、一定の富裕化を示すものでもありました。
しかし、この富裕化は他国の裁縫労働者が低賃金労働であることとの格差によって成立してしまったのです。ルイス転換点を越えた時代の日本は、どんどん外国の低賃金に依存するやせ細った経済へと進みました。
※この記事は、富沢このみ『アパレル産業』東洋経済新報社、1980年の180頁~196頁までを一部で参照しました。
まとめ
- 日本アパレル産業のルイス転換点は1960年代
- 1960年代に賃金水準の高い大都市が最大のアパレル産地へ
- 同時に、九州地方・北陸地方などは関東地方・近畿地方のアパレル業者の下請へ
- その後、日本全体の賃金が上昇したため、アパレル産業は外国への委託生産を強化
つまり、戦後日本ではルイス転換点を越えた1960年代以降、衣服調達を外国へ依存するようになりました。
補足:ルイス転換点の妥当性
最後に、ルイス転換点の妥当性について書いておきます。
農業中心
ルイス転換点がわかりにくいのは、農村と農業、都市と工業をセットに考えるからです。ルイスのモデルでは工業化によって農村から都市へ人口が移動します。
しかし、やがて都市内部での余剰労働力を形成することもあるわけです。ただ都市部(というか工業)の賃金上昇が一国の経済発展の鈍化とセットとみなす点は経験的で説得的と思います。
少子化もともなう永続的過疎化
ルイスモデルでは少子化も伴う永続的な過疎化を説明できません。
日本はいまそのような過疎化をたどっています。2020年の国勢調査によると「過疎地域」に指定される自治体が885市町村を数えます。
この数値は東京23区を除く全市町村1718の約52%にあたります。
中国をどう説明
なお、ルイス転換点を越えた後も中国では経済発展を遂げてるという珍しい現象がおこっています。
この現象はとくにハイテク部門に見られるもので、賃金上昇が長く続いているにも関わらず新技術や新サービスの不断の開発によって経済発展が継続しています。
ルイスモデルから中国の珍しい現象をどう説明するか。
農村部と都市部に続きハイテク部ができた点も大きいかと思いますが、しばらく見守る必要があります。
余談
1960年代に日本はルイス転換点を超えました。農村部ではかなり人口が減りました。この背景をもとに作られた小説や映画はたくさんあります。
このうち松本清張と横溝正史の原作映画について、日本の家制度(近代家父長制)に関連づけてまとめたエッセイもご覧ください。
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