アイデンティティの源流「奈良とは?」

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私とはどこですか?」では中国旅行や中国人との恋愛から、私のアイデンティティ喪失(自己喪失)の話をしました。

ここでは私のアイデンティティ喪失の原型となった奈良と日本の名称や位置を考えます。そして、奈良・日本と私のアイデンティティを考え直します。

私にとってホームや故郷はどこかと問われると奈良県のなかでも橿原市だと応えます。

しかし、年をとるにつれ橿原市ではなく中国だと妄想するようになってきました。

橿原市(かしはらし)は誤解が多いです。今なお橿原を取りあげるニュースでは、後の時代に書かれた本すら根拠にせず、神武天皇を取りだして日本国の始まりの地域だと書いています。

神武天皇が橿原の地に皇居を構えたことから、同市の橿原神宮は“日本国はじまりの地”と呼ばれる。https://withnews.jp/article/f0220219001qq000000000000000W0gd10601qq000024318A

しかし、日本史の教科書や専門書では橿原市ではなく飛鳥時代に飛鳥で国号日本が初めて使われたことは広く知られています。

ガラパゴス奈良・ガラパゴス橿原の田舎具合には顎が外れそうな気分になりますが、とにかく私のアイデンティティの源流を探っていきます。

アイデンティティの源流「奈良とは?」

私は、奈良県橿原市に生まれ、25年間ほど暮らしました。

大叔父には、考古学の鬼才といわれた森本六爾がいます。また、父親が日本史に関心をもっていたので、私にも幼いころから歴史に興味がありました。

奈良盆地の西側には、二上山をはじめとする古代神話に満ちた山々が南北に広がります。小さい頃から、西の山々を見てはその向こうを知りたくなりました。

私は自分のアイデンティティを考えるとき、奈良が鍵を握っていることは分かっていましたが、突破口がありませんでした。

奈良とは何か」を問うと必ず二つの回答や発想が出てきて、私は奈良を説明できません。

たとえば、奈良盆地南部と北部に分かれる複数の古都、近つ飛鳥と遠つ飛鳥、畿内説と九州説の邪馬台国など。

奈良と唐

奈良県橿原市南浦町から高市郡明日香村を望む。2017年2月12日に撮影。OLYMPUS OPTICAL CO.,LTD u10D,S300D,u300D, ƒ/5.2, 1/100, , 17.4 mm, ISO 250

奈良盆地を一体として考えてみましょう。

女帝の持統天皇統治下で689年に施行された飛鳥浄御原令は、はじめて王朝名に「日本」を用いた法令です。

この王朝名が国際舞台へ登場したのは13年後、702年のことでした。

奈良盆地南部から長安(現西安市)へ使者が派遣され、ちょうど王朝名を唐から周へと一時的に改めていた女帝の武即天から、王朝名日本の使用許可を倭は得ました。

このとき日本の朝廷は橿原の藤原京にありました。

当時のユーラシア大陸最強国家(つまり世界最強)だった唐が一時的な政治的動揺をしている隙間に、「日出づる処」を意味する大胆な王朝名を認めさせたわけです。

当時の日本と中国の皇帝がともに女性であったという点が日中交流史からみると面白いですね。

確かに、中国大陸からみれば奈良は太陽の昇る場所ですが、奈良盆地からみれば太陽は三重県から昇ってきます。

逆に、ハワイからみれば東アジアが「日没する処」にもなります。いうまでもなく、みる場所によって日本は日没の地ともなります。

「日本」とは西の唐(中国)や天竺(インド)に対する自立意識の表現だったわけです。

奈良と大和と日本

奈良と大和と日本との関係について、大和」の用語の成立から考えてみましょう。

折口信夫『萬葉集辭典』(万葉集辞典)と『國文學篇3』(国文学編3)が参考になります。

大和とは山門とも記され、現在の奈良県桜井市・宇陀郡を中心とした南北の山地、または山麓一帯にあたります。南北の山地は伊勢街道によって分断されています。

南北の山地や山麓一帯が奈良盆地に変わる辺りが纏向・箸墓古墳群や磯城といわれる地域です。

山門にすぎなかった大和が、奈良時代には奈良盆地中南部をさすようになりました。

地名として利用される大和は、現在、ほぼ奈良県と同義に利用されています。奈良県と同義とする考え方は江戸時代に出てきました。

ですから、大和魂とは江戸時代前まで山門魂であり、江戸時代から奈良魂となったわけです。日本魂ではありません…。

奈良と京都とシルクロード

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それでは、京都市(京都府)と奈良を比べてみましょう。

京都市は平安京が存在した場所です。奈良にあった古都のどれと比較しても、首都として機能した時間や天皇が居住した時間は平安京の方が圧倒的に長いです。

ここに、かつての私がそうであったように、奈良県民の一部が京都に対して健気で子供じみたコンプレックスをもつ原因があります。

よく挙げられる例が修学旅行です。高校の修学旅行で京都に宿泊することはあっても、必ず奈良は日帰りでした。

古都として、どれほど盆地北部が盆地南部よりも鹿と大仏(東大寺)で有名であっても、京都に比べれば日帰りの地位です。

古代朝鮮語にみる奈良の意味

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古代朝鮮語にみる奈良の意味について、日本語教師養成講座の内容をもとに深く考えてみます。

授業で奈良県郡山市の「郡」(こおり)が古代朝鮮語だったという話を聴き、私は奈良県の「奈良」そのものが朝鮮語から来ていると聴いたことを思い出しました。

先生にそのことを伝えると、奈良の発音(なら)は古代朝鮮語でいう「くに」とのことでした。

古代都市奈良は日本の起源ですから、古代の論理が見えたようで衝撃でした。

それでインターネットをいろいろ調べてみると、パク・ソンス氏(韓国学中央研究院名誉教授)の2014年の説で、百済人が建国した奈良は韓国語で「」を意味する「ナラ」を語源にしているとのこと。

日本史の根源と日本のアイデンティティ

offthetrackjapanによるPixabayからの画像

この話は6世紀が念頭のようですから、古代奈良(倭国)が国号を日本と定めて、唐(中国)の則天武后から許可を得た7世紀へと日本史の根源が続いていくこととなります(この点はアイデンティティの源流「奈良とは?」にまとめています)。

日本を作ったのが中国なのか朝鮮なのか、あえて分ける必要もありませんが、どうも時間的な整理ができていませんでした。

でも、古代朝鮮語と奈良の関係を調べているうちに、日本のアイデンティティが朝鮮から中国へと移ったことをしっくり理解できました。

また、飛鳥時代は朝鮮から中国へと対日影響力が変わってくる時期だと分かりました。

藤原京平城京へと古都が移るにつれてからの文化受容が進み、この影響が鈍化したのが平安京という流れです。

日本語教師養成講座の「国際理解」の講義でも、日本史をふまえて、

  • 飛鳥文化…中国(六朝・隋)や朝鮮半島三国(高句麗・百済・新羅)の影響
  • 天平文化…中国(唐)の影響

と習いました。

この要約は広いので、受験参考書の『日本史実力強化書』からも飛鳥文化と天平文化をまとめてみます(24頁、49・50頁)。

  • 飛鳥文化…朝鮮(百済・高句麗)の影響と中国(南北朝時代)の影響。仏教寺院は奈良や大阪が中心。
  • 天平文化…遣唐使を介して中国(唐)の影響(国際色豊か)。仏教寺院が各地に拡散。

日本とはどこですか?

奈良県橿原市南浦町から奈良盆地西部の二上山を望む。2017年2月12日に撮影。

私は小さい頃から、奈良盆地の西の山々を見てはその向こうを知りたかったです。

今なら理解できます。

奈良の西には大阪があります。瀬戸内海を西進すれば、海を隔てて中国大陸があります。さらに西へ進み続ければ、中央アジアを越えヨーロッパに到達します。そのまま西進を続ければ、結局、奈良や大阪に戻ってきます。ただそれだけのことです。

このうち、中国からヨーロッパまでの繋がりは、とっくの昔から古代人がシルクロードとして実現させていたことでもあります。

他律的な王朝名や国号をもっているかぎり「日本とはどこですか?」という疑問は永遠に続きます。年を経るにつれ、日本を支えてきた中国の方に私は魅力を感じるようになってきました。

まとめ

ここでは私のアイデンティティ喪失の原型となった奈良と日本の名称や位置を考えました。そして、奈良・日本と私のアイデンティティをふりかえりました。

  • 奈良とは王朝名日本の使用許可が唐から出た場所。このとき、日本の朝廷は橿原の藤原京。当時の日本と中国の皇帝がともに女性であったという点が日中交流史からみると面白い。
  • しかし、歴代の飛鳥京をはじめ、藤原京や平城京をもってしても、古都として京都にくらべると奈良は日帰りの地位。これは今でも不変。
  • 奈良県の「奈良」は朝鮮語を由来。奈良の発音「なら」は古代朝鮮語の「くに」。古代都市奈良は日本国(日本朝)の起源なので、日本の起源は朝鮮。
  • 日本の起源である奈良は朝鮮からクニと指定。唐から日本という王朝名を許可。飛鳥時代は朝鮮から中国へと対日影響力が変わってくる時期。

私は小さい頃から、奈良盆地西部の山々を見てはその向こうを知りたかったです。

今なら理解できます。

奈良の西には大阪があります。瀬戸内海を西進すれば、海を隔てて中国大陸があります。そのまま西進を続ければ奈良に戻ってきます。

ただそれだけのことです。

私にとって西には何があるか。この問いに私は中国があるとはっきり思えるようになりました。

「籌敏になるな、六爾になれ!」という祖母の期待が遺言と錯覚したまま私の心に残り続けてきました。「六爾になれ」という祖母の言葉に縛られ、森本六爾のように偉大になることばかりを考えて、アイデンティティ形成に難儀しました。この経緯を述べています。私の10代・20代の思い出です。
森本六爾と私:アイデンティティの歴史
「六爾になれ!」という祖母の期待は遺言と錯覚したまま私の心に残り続けてきました。2019年の自著で浅田芳朗つながりから森本六爾にも触れ解放された気分になりました。人に期待をすることは、時に人を縛り路頭に迷わせることになります。

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