「産業革命論」にみる左翼ナショナリズムの形成

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かつての日本の共産主義、左翼の貿易排除の思想、一国資本主義論のスタンスをここで左翼ナショナリズムと名づけています。

左翼ナショナリズムはとかく自画自賛(セルフ・プレイズ)する思想です。誰も頼んでいないのに、労働者や農民を守ったり、他人のために役立ったりするように見せかけて、自分の言説を埋めることしか考えない。こういう弱点があります。

この記事では、経済史学の研究者たちがどのように産業革命論を述べてきたかをたどります。

そして、経済史学にみる左翼ナショナリズムの形成を論じています。

そのうえで、各国経済史学が地域や国を限定して分析してきたことから、グローバル社会でほとんど役立たないことを述べています。

また、地域や国家の次元で語ってきた経済学が機能不全に陥っていることも指摘しています。

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各国経済史学の左翼ナショナリズム

各国経済史学のクセ

各国経済史学ははっきりと地域や国を限定します。

西洋経済史、アジア経済史、中国経済史、日本経済史などです。

もともと経済活動は国境を超える前提にたっています。

しかし、経済学には運動を国内に限定する部門が多く、グローバル社会でほとんど役立ちません。

近年、経済学の評価や立場が下落の一途をたどっているのは、地域や国家の次元で語ってきた経済学や経済史が機能不全に陥っていることの表れです。

左翼ナショナリズムとは

かつての日本の共産主義、左翼の貿易排除の思想、一国資本主義論のスタンスを私は左翼ナショナリズムと名づけています。

左翼の思想パターンは、従来の既成観念に一つの新しい既成観念をもってきて、その新しい既成観念のタコツボにはまることでした。産業革命論においては産業資本が新しい既成観念。

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「産業革命論」にみる左翼ナショナリズムの形成

エリック・ホブスボーム『産業と帝国』

エリック・ホブスボーム『産業と帝国』はイギリスの18世紀から20世紀第二次大戦後までを扱った本です。

産業革命前のイギリスの状況を詳しく説明し、産業革命の要因がいかに蓄積されたかを論述しています。

そして、私企業が利潤を上げることと技術革新との関係に触れ、イギリスがどうして最初に産業革命を起こしたかを中心に分析しています。

植民地や外国との貿易をつうじた経済発展

エリック・ホブスボームによると、産業革命の真因は膨大なる植民地貿易による、世界的規模における商品生産の勃興にありました。

つまり、商業と海運がイギリスの経済収支を維持し、海外の一次産品(おもに農産品)とイギリス工業製品との交換がイギリスの国際経済の基礎となりました。

ホブスボームは植民地や外国との貿易をつうじた経済発展を認識しています。この認識は日本の多くに左翼ナショナリズムに欠けている点です。

1750年頃のイギリスで自作自営が相対的に低下

1750年頃のイギリスについて、イングランド(ウェールズやスコットランドは異なる)はすでに全国的な規模で貨幣経済に突入していました。

第二次囲い込み運動で、農村はすっかり貨幣経済の網の目の中に組みこまれました。

茶・砂糖・タバコなどの輸入品目が農村生活で使われ、これらの品目の商業化をもたらし、自作自営が相対的に低下しました。

『産業と帝国』のタイトルと内容のズレ

貿易から経済発展や産業革命の勃興をホブズボームは述べていますが、だんだんイギリス国内の農村へと焦点をズラしていきます。

この結果、イギリス産業革命の要因を国内状況に求めるホブスボームの発想は『産業と帝国』というタイトルとズレはじめ、タイトルと内容が噛み合わなくなります。

大航海時代以降の世界では、産業(industry)も帝国(empire)も一国で成立しません。この点をホブズボームは執着的に書くべきでした。

ホブズボームの左翼ナショナリズム

残念なことにホブズボームは左翼ナショナリズムの発想に縛られていったようです。

イギリス産業革命は外部的な要因で説明できるものではないとまで述べています。

そして、少なくとも200年間にわたるかなり一貫した経済成長が先行し、準備を整えて工業化へ入ったと…。

つまり、イギリス産業革命・工業化の前提条件は18世紀のイギリスにすでに存在したことになります。

しかし、ホブズボームは、商業と海運がイギリスの経済収支を維持して、海外の一次産品とイギリス工業製品との交換がイギリスの国際経済の基礎になったとも考えていました。

『産業と帝国』のもがき

『産業と帝国』の原著は1968年に刊行されました。

原題は「Industry and Empire: An Economic History of Britain since 1750」です。邦訳は1984年に未来社から刊行されています。

『産業と帝国』は、海外貿易を基盤にした帝国と農村から経済発展が展開したブリテンに挟まれ、藻掻いた本といったところでしょうか。

日本資本主義論争

日本資本主義論争とは、日本の資本主義が発展するなか、どの政治的変革や経済的転換が、社会主義革命の指針となるかに関する議論です。

日本の学問の不幸

たとえば次のような論争がありました。

  • 明治維新はブルジョア革命(市民革命)かどうか
  • 日本の産業革命はいつ達成したか

多くの議論が同時代の政治に結びついてしまい、政治学や経済学が政治との距離をとれずに議論が展開しました。これも日本の学問の不幸です。

産業革命論

このうち、日本の産業革命はいつ達成したか、これは産業革命の達成時期や産業資本の確立時期に関する論争として展開しました。この記事ではたんに産業革命論といっています。

経済史学の言い方で産業革命論をまとめると、次のようになります。

機械制大工業の発展によって資本制生産様式の支配が成立し、一国資本主義の資本制的な再生産軌道が定置することです。

何を行っているのかサッパリわかりません。

詳しくみても不思議なことがたくさんあります。

  • 工業が資本制生産様式の代表なのか。
  • 生産様式が支配するとは何なのか。
  • 一国資本主義の資本制は成り立つのか。
  • 再生産軌道が成立したらそれは定置だろう。

とりあえず、左翼ナショナリズムの事例として、大石嘉一郎『日本資本主義史論』と石井寛治『日本の産業革命』をとりあげてみます。

大石嘉一郎『日本資本主義史論』

大石嘉一郎『日本資本主義史論』には大石氏の産業革命論が集約されています。

本書はかなりナショナリズムな発想に縛られていて、対外的要因を排除する論理で貫かれています。日本の経済史研究が貿易を排除した理屈がよくわかります。かなり排他的な思想です。

『日本資本主義史論』で大石は産業革命を資本主義の根幹とみなしています。

これによると、産業革命は、歴史的生産様式や経過的生産様式となり、近代資本主義の確立を決定づけたものでした。

そして、産業革命の達成時期は、国民経済の急激な資本主義的改造の歴史的画期だったと述べています。

戦前の日本は日本帝国といって、当時の憲法では国民ではなく臣民という言葉が使われていました。用語のすり替えです。

大石のいう産業革命の時期については次の2点がセットです。

  • 原始的蓄積過程の最終段階
  • これに連なる産業資本確立期(=資本主義確立期)

原始的蓄積過程の最終段階

原始的蓄積は本源的蓄積ともいわれ、この蓄積過程とは、農村部で仕事がない人たちが都市部へ移動し、賃金労働者(賃労働者)となって、雇用主に雇われる現象です。資本主義経済の初期現象といわれています。

労働力が移動する点からみると、この現象はルイス転換点にむかう段階です。大石のいう原始的蓄積過程の最終段階とは、ルイス転換点に到達する直前となります。

大石の産業革命論は、ルイス転換点に到達する直前から、産業資本が確立する時期、つまり資本主義が確立する時期が続きます。

産業資本確立期(=資本主義確立期)

大石嘉一郎は日本における近代工業の発端について、商業資本(問屋制家内工業)の産業資本への転化と解釈しています。

そして、旧式農村の農家構造に立脚しながら都市工業が支配していくという問題ととらえました。

商業資本(問屋制家内工業)が産業資本へ転化するといいますが、家内工業に生産させる問屋自体が工場の場合はどうなるのでしょうか。

大石の論点は商業と工業と産業の区別が不明瞭です。また、労働力移動と家内労働・工場労働との次元の違いもよく分かっていないようです。

少し視野を広くしましょう。資本主義を理解するときに貿易の要素を重視すれば、資本主義を保険によるリスク回避と考えることができます。産業資本がいつどのように確立しようと、19世紀中期から近現代の日本は貿易を続けてきた事実も見逃せません。

このように考えると、日本国内に視野をしぼって産業資本の確立や資本主義の確立を述べることは、かなり現実とかけ離れていたことになります。

大石嘉一郎の左翼ナショナリズム

大石嘉一郎の左翼ナショナリズムは、山田盛太郎説の批判的検討をせずに、他者の批判的検討のみというスタンスに現れています。

山田説を採用するのは、マルクス史学に関する論者のよくするパターンで説得力に欠けます。

そもそもcapital資本以外に都市・首都も意味します。資本や資本主義を考えるには都市や首都と結びつけて考えられがちです。大石は、資本主義という用語に、都市への労働力移動と資本・資金の両義を混ぜてしまったのが難点です。

石井寛治『日本の産業革命』

石井寛治氏は『日本経済史』という教科書を書いた実力者です。

『日本経済史』はヨーロッパや中国との関係にもふれ、さまざまな論争もとりあげています。史実と論点を網羅したもので、いまだに本書を越える教科書は出ていません。

しかし、石井寛治『日本の産業革命:日清・日露戦争から考える』(初版は1997年)をみますとタイトルに違和感を覚えます。

石井氏は『日本蚕糸業史分析:日本産業革命研究序論』(1972年)で地域・横浜・外国の金融ネットワークを述べました。

つづいて、1984年に『近代日本とイギリス資本:ジャーディン=マセソン商会を中心に』を刊行し、イギリスにも目を配りました。

石井寛治氏は『日本経済史』(第2版の初版は1992年)を転機に、その後もっぱら左翼ナショナリズムへ進んだ印象を受けます。

『産業革命』は「資本−賃労働」の関係の定着に注目します。日本経済史のありきたりな観点です。

「資本−賃労働」の関係は産業革命論で必ず述べられる論点です。しかし、この関係は雇用の話であって、産業革命ではなく雇用革命として展開するべきでした。

資本家的生産様式の萌芽

講座派と労農派の論争の一つは、資本家的生産様式(資本主義的生産様式)の萌芽に関する見解の不一致にありました。

服部之総が指摘した萌芽要因は2点です。

  1. 資本−賃労働関係の成立
  2. 社会的生産物すべての商品化

服部が①を資本主義的生産様式の萌芽とみなし、石井寛治は①を産業革命の開始とみなした点が異なります。

資本主義的生産様式がスタートした時期と産業革命がスタートした時期は、論者によって一致しているわけではありません。少しズレます。

戦前から経済史研究をしていた服部之総は資本主義的生産様式のスタート、とくに何をもって資本主義が始まったかに注目しました。これに対し、石井寛治は産業革命のスタートに注目しました。資本主義は前提となっていたわけです。

服部と石井のズレから大切なことは、近代日本の経済発展で焦点となる時期や特徴が、時代とともにズレていった点です。

資本主義という経済システムについて、服部のように不可解で議論の対象とする時代と、石井のように前提とした時代には、戦前の貧困と戦後の高度成長という大きな違いがあったと考えられます。

なお、②は服部も石井も意外と考えていません。貨幣経済の浸透や拡大で代替したわけです。

日本資本主義論争や産業革命論が注目した消費財生産部門の発展に注目すると、アパレル産業がすべての衣料品を提供した戦時期に日本の資本主義や産業革命が達成されたと考えられます。

すると、石井説の帝国主義と資本主義との関係が崩れます。この点を詳しく見ましょう。

石井寛治の左翼ナショナリズム:接続詞に注目する

法学や政治学は堅くて古文かというような日本語で満たされた難しい学問分野です。

経済学や経済史も違った意味で日本語がわかりにくいです。とくに党派的な思想が多く、接続詞がわかりにくいです。

接続詞に注目して石井寛治の左翼ナショナリズムをたどりましょう。

もともと産業革命を「革命」たらしめているのは、資本−賃労働の関係が社会的再生産の機軸になったという劇的な転換にあるのであって、転換のスピードをもって「革命」と呼んでいたわけではない『産業革命』5頁

と述べています。

もともととは何でしょうか。

先行研究、とくに石井氏が賛同する研究類をまとめて「もともと」とまとめているのであって、客観的な基準はありません。党派的な考えです。

「もともと」という言葉には気をつけるべきです。

ついで、経済学や経済史で注意すべき接続詞したがってをみましょう。

19世紀末から20世紀はじめにかけてのアジアでは、日本だけが産業革命を達成した国であったが、同時に日本はアジア唯一の近代帝国主義国となって近隣諸国を支配した。したがって、日本の産業革命の特徴を理解するためには、あわせて日本の帝国主義化の特徴を把握することがどうしても必要となる。『産業革命』5頁

日本の近代化や産業革命や工業化において、戦争や植民地支配は大きな問題です。

しかし、一旦、帝国主義と植民地支配を分けてほしいところです。引用内のしたがってがわかりません。

アメリカの多国籍企業が拡散するなかで、帝国日本が日清戦争と日露戦争に踏み込んだ視野がほしい。植民地支配といおうと、侵略や侵攻といおうと、日本が真似したヨーロッパ型の帝国主義じゃない経済侵略ふうの視点が必要です。

日本帝国も石井寛治も、ヨーロッパ型の帝国主義しか見なかったといえば言いすぎでしょうか。

日本資本主義論争や産業革命論が注目した消費財生産部門は、紡績業や織物業だと誤解されてきました。

アパレル産業がすべての衣料品を提供したことに注目すると、戦時期に日本の資本主義や産業革命が達成されたと考えられます。

こうして、石井説の資本主義と帝国主義との関係が崩れます。

インド以下的低賃金

「19世紀末から20世紀はじめにかけてのアジアでは、日本だけが産業革命を達成した国であった」という見方も微妙なラインに立っています。

アジアに限定すると日本トップという発想が出てきます。トップに立つように範囲を限定する手法は日本人がよくやるものです。

この発想は講座派の嫌らしいところでもあります。

石井寛治『日本経済史』(第2版)で紹介しているように、日本の経済史学では、近代日本の経済発展における賃金問題をかつて「インド以下的低賃金」とみなしていました。

インドよりも日本の賃金が低いことをダメだと考えたわけです。

この考えは唐突な偏見にもとづいています。インドと比較したにも関わらず、このフレーズ以外にインドは二度と出てきませんし、宗主国のイギリスも出てきません。

日本資本主義論争はイギリスをモデルとしたといわれますが、実はそうではなくイギリス・モデルを虚構に作りあげ、それに日本を当てはめたものでした。

左翼ナショナリズムの問題点にみる経済史の罪

「資本−賃労働」関係にこだわりすぎ

左翼ナショナリズムが「資本−賃労働」関係を大きくとりあげたのは、資本制以前の封建制・農奴制・奴隷制などに関わります。

これらの制度では、雇用者と被雇用者の関係において仕事時間の自由や移動の自由を制限していました。

封建制・農奴制・奴隷制の次に資本制がやってきたので、左翼ナショナリズムのうち、とくにブルジョア革命から共産主義革命への2段階革命を展望する人たちは、資本制をブルジョア革命とみなそうというものでした。

資本制が到来したことの指標が「資本−賃労働」関係だったわけです。2段階革命の信奉者たちは、ブルジョア革命の次に共産主義革命が来ると希望していました。

問題は、革命や政治に依存した経済学だったことです。経済学は政治経済学ともいうので、政治と切り離せません。

しかし、自分の好きな政治や党派のために経済の事例を再構成するのは、短期間で説得性を失います。より長期的な視野で政治と経済を関係づける姿勢がほしかったところです。

民衆への愛を自負

しばしば左翼ナショナリストたちがもつ労働者や農民への眼差しは、自己満足にすぎないケースが多いです。農民は生産手段を失ったとか、労働者は劣悪な環境に立たされたとか。

これらの眼差しが以外に農民や労働者に刺さらなかったのは、左翼ナショナリズムが自己満足したからです。

シャルル・フーリエは『四運動の理論』のなかで次のように述べています。「われわれの学問は民衆への愛を自負していながら、民衆を保護する手段についてはまったくの無知である」。

一般と特殊に対する「特殊化された一般」

中村政則は戦後の日本経済を分析する方法について「一般と特殊、政治と経済の統一的把握という講座派の方法はいぜんとして継承する価値のある方法」と述べました。

中村の見方も含め講座派の諸説を読んで感じるのは、一般といわれる経済思想が特殊化された一般にしか見えない点です。

第一者モデル(イギリス)の形成は戦後です。日本の資本主義や経済発展を論じるときに、他方でイギリス風のモデルがつくられていました。

日本もイギリスも貿易を土台にして経済成長したのに、ホブズボームも産業革命論者たちも一国経済史に縮小していったわけです。現実からかけ離れた机上の空論が、イギリスでも日本でも展開してしまいました。

かつての日本の共産主義、左翼の貿易排除の思想、一国資本主義論のスタンスを私は左翼ナショナリズムと名づけています。

左翼の思想パターンは、従来の既成観念に一つの新しい既成観念をもってきて、その新しい既成観念のタコツボにはまることにあります。産業革命論においては産業資本や資本-新労働関係が新しい既成観念でした。

グローバルな思想である共産主義は、えてして左翼の思想家たちによって左翼ナショナリズムへと縮小する傾向が、世界中でみられました。国家領域に縮小してしまった原因に経済学や経済史の閉塞性があげられます。

もう一つの問題

左翼ナショナリズムでは工場制の拡大が注目されました。勤務移動の点からいえば集中型生産組織が注目されたわけです。それとともに問屋制(分散型生産組織)が減っていくという論点が、深く検討されないまま産業革命論の前提となってしまいました。

これに対して、中村隆英氏の在来産業論が1960年代に出ました。この論点は、近代化・工業化を進めたのは工場制だけではなく問屋制でもあったという説です。

そこで前近代の産業が注目されるようになりました。同時に、近代において前近代的な産業が一時的に拡大したという説も出てきました。生産組織でいえば問屋制家内工業の研究が活発になりました。

今でも織物業を紡績兼営織布から切り離し、問屋生家内工業や下請の華やいだ世界を描こうとする研究は後を絶ちません。

しかし、紡績県営織布から織物業を切り離したり、契約構造の問題なのに問屋を生産組織とみなしたり、問屋が工場になっている事実を見ようとせず下請に固執するなど、日本経済史における織物業研究には大きな偏見がありました。

問屋や下請を重視する研究者たちは現代日本経済の闇を黙認しています。問屋は産地偽装をやり続けてきましたし、下請は多重下請けの旨味をシェアしてきたわけです。

問屋好きや下請好きの研究者たちが議論ではなく持論にこだわって大学教育を担っているという悲しい現状が、大学にあります。双方向授業(アクティブラーニング)がえてして一方向授業になる理由は研究者の持論固執にあります。

別の記事では、これらの偏見も過去形として(過去のもの)屁理屈の成立をたどります。

まとめ

ヨーロッパが統合されてきた20世紀、ITがグローバルに展開する21世紀。

このあいだに近代的な「一国の首都」自体の意味も変わりました。ですからcapitalの概念をあらためて検討する必要がありますし、資本の概念もみなおす必要があります。

分析の枠組みや観点は、ときとして足枷となるケースが多いです。

この記事では経済学理論とくに経済史学に注目して、足枷の事例をたどりましたが、歴史学理論では左翼ナショナリズムがさらに強くなる傾向があります。

ある国の自国史はよく国史といいますが、この言い方自体に閉塞的なナショナリズムが強く表現されています。

最後に、産業革命論は私たちの認識や発見に貢献してくれませんが、反面教師として役立ちます。

石井説の資本主義と帝国主義との関係が崩れたことはすでに確認しました。

また、この手のややこしい文章を読むときに重要なのは接続詞「したがって」。でした。前件から後件に帰結する論理に理論が見えてきます。

産業革命論は消費を大きく読み間違った議論でした。

近代日本の衣服産業(アパレル産業)を消費部門の分析から外した間違いを次の記事で説明しています。ぜひご覧ください。

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