1990年代東アジア経済の変容と中国

広視野経済学
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中国のリープフロッグ型経済発展の裏側で何が起こっていたかを説明しています。

そして、過去30年間の中国の大きな工業化で東アジア4地域の関係が変化したこともお話します。

そのために次のような構成で話をすすめます。

  1. 1990年代の日本と中国が産業構造を変えたことで、相互の関係が変化したことを確認します。
  2. 東アジア4地域の急激な工業化に必要不可欠だった対欧米輸出の意義を考えます。この輸出動向からみて、過去30年間に東アジア経済が変容し、相互の関連が変化したことを述べます。とくに、日台韓の脱工業化中国の工業化について。
  3. 2010年代、中国内需主導型資本輸出国へと転換したことを紹介し、世界経済をリードするようになった内容をさぐります。

1990年代の日本と中国

この30年間、日本はバブル経済の消滅から国全体の過疎化まで衰退を続けています。

日本の所得水準があがっていた1980年代、日本の中小零細企業が資金繰りにミスを乱発し、バブル経済へ突入。1990年代になるとバブル経済は崩壊・消滅しました。

これが日本経済の衰退理由の一つで、国内の動向を理由にしているので内在的要因といいます。

他方、別の理由に1990年代からはじまった産業空洞化があげられます。産業空洞化とは、国内企業の生産拠点が国外に移転して国内産業が衰退する事態のことです。

産業空洞化は国内と国外の相互関係にもとづいた事態ですから、これは内在的要因だけでなく外在的要因ともいえます。

さて、日本の中小零細企業は国外移転をすすめました。移転先はおもに中国でした。中国が外国企業との連携から工業化に進んだ時期のうち、もっとも激しい成長を遂げた時期は1990年代と2000年代だったでしょう。

同じ時期、日本の産業空洞化の埋めあわせはサービス産業(第3次産業)に委ねられました。しかし、2020年代のいまからみて、これが成功したとは考えにくく、中国のほうが進んでいます。

21世紀になってから中国経済は大きく発展しました。

私が中国や中国人留学生と接していて感じた変化は次のような点です。

  • 2005年頃…上海の繁華街「南京東路」を歩く中国人観光客に田舎者が増えた
  • 2007年頃…日本へ来る中国人留学生たちがチャラくなった
  • 2014年頃…日本へ来る中国人留学生たちが日本語を話せないケースが増えた(中国人観光客の来日急増と連動)
  • 2019年頃…日本へ来る留学生も観光客も急減した(私が勤務していた大学では中国人留学生がたった1年で600人も減少した)

コロナ禍はこの流れの後ですから、中国人が日本に魅力を感じなくなった理由はコロナ禍ではありません。日本の魅力そのものが理由です。

中国人にとって経済的にも文化的にも日本から学ぶことがなくなったのです。最近はベトナム人留学生が急増しています。数年後、彼ら・彼女らも日本に来ることは減るでしょう。

必要不可欠だった対欧米黒字

1980年代中頃から、日本台湾韓国の対北米輸出が停滞しましたが、中国の対北米・西欧輸出が急増しました。

このため、4地域合計では1980年代以降も対欧米輸出と対東アジア輸出は、ほぼ同じペースで拡大を続けました。いまのグローバル時代でも欧米地域での黒字が依然として圧倒的に大きいものです。

対東アジア輸出を相殺すれば、4地域では世界中からの資源輸入を賄うために対欧米黒字が必要不可欠でした。

いま中国とアメリカを中心に国際通商紛争が激しくなっていることをみると、相対的にでも東アジア経済が新しい構造をもったことが分かります。

それでは、東アジア世界経済はどんな新しい構造をもったのでしょうか。この点を探りましょう。

過去30年間にみる東アジア経済の変容と相互の関連

グローバル時代における各国の経済や産業の変動は、世界各地ががもつ諸条件からつよく影響を受けるようになりました。

ですから、東アジア内部や中国・日本・台湾・韓国に内在する条件や、それぞれがもってきた通時的な条件だけでは捉えきれません。

ここで、産業別に従業者の比率から中日台韓を比較しましょう。

日台韓の脱工業化

1990年以降、日台韓第1次産業は数%にまで低下し、90年前後にピークを迎えた第2次産業が急速に比率を下げました。いわゆる脱工業化です。

台湾はかなり持ちこたえましたが、工業化の進展が遅かった韓国では工業の衰退がもっとも急でした。

日台韓とも製造業(第2次産業)の大部分が衰退し、労働力が第3次産業へ移動しました。これら製造業の衰退・空洞化は 中国工業化東南アジア工業化と裏腹(分業)です。

中国の工業化

改革開放以後の中国は1990年代の国有企業改革と民間企業の自由化以降、猛烈な工業発展をスタートしました。

2001年に中国がWTOに加盟し、対外輸出に拍車がかかります。

そして2010年には中国の名目GDPが日本を上回りました。2010年現在、国民の約半数が農業(第1次産業)に従事していたので、一見、工業化の発展が緩やかにみえました。

しかし、第2次産業の従業者数は1990年の1億978万人から2010年の2億1548万人へと、20年間で倍増していたのです。

東アジア経済の変容

2010年頃の東アジア経済の変容を次のようにまとめられます。

日台韓は脱工業化から急激なサービス産業化(第3次産業化)に進みましたが、中国は工業(第2次産業)の拡大が経済成長をリードしていました。

日台韓では脱工業化の流れから中小零細企業が衰退したり国外移転したりしたため、国際競争力をもてるのは特定の産業部門に限られるようになりました。

この事態が2020年からはじまったコロナ禍に重なり、日台韓の中小零細企業はCovid-19の猛威にさらされています。

2010年代中国の展開:内需主導型と資本輸出国へ

21世紀初頭まで、中国の経済成長の原動力は輸出投資でした。

2000年代から中国の貿易黒字が拡大して、あまりに巨額の外貨準備が生じたことから、世界経済の不安定要因となっていきました。

2014年頃から日本へ旅行する中国人の観光数が急増し、大量に日本製品を購入する爆買いが話題になりました。

爆買いには二つの理由がありました。

  • 中国人の所得水準が向上したこと
  • 中国は外国製品に対して高い関税をかけていたこと(日本製品を中国よりも日本で購入したほうが割安)

内需主導型への転換

2010年代後半から、中国は世界経済の不安定要因になることを避けはじめました。

経済成長の原動力を海外市場から国内市場へ移行させ、とくに個人消費を拡大して内需主導型へ転換を図るようになっています。そしてコロナ禍によって国内市場がさらに発展し、内需主導型の強化につながっていきました。

コロナ禍における世界のニュースで中国が一番元気に見えるのは、このためです。

2017年の中国のGDP支出面での寄与度をみますと、先進国にくらべ個人消費の寄与度が小さいです。先進国では、個人消費のGDP寄与度は60%以上になりますが、中国では50%ほどに留まっていました。

この時点で、中国には輸出と投資を主体とする高度成長の余地がまだまだあるのです。

つまり、中国内市場にはたくさんのフロンティアが残されているわけです。

他方、2000年代までの中国は資本輸入国でしたが、最近、資本輸出国へ転換をしています。この勢いも強いものです。

資本輸入国から資本輸出国へ

中国の資本輸出国への転換では、政府系の投資銀行をとおしてアフリカ地域での資源獲得を目ざした進出がめだちます。

チュニジア料理店のマスターに2000年代の中国の投資状況を聞いたとことがあります。彼が話したことには、石油の交渉をするときに日本の商社は値切ることしか話さないが中国の商社は街を作ってくれる、勝負ははっきりしていると。

2015年、中国を中心にアジアインフラ投資銀行が発足しました。

アジアインフラ投資銀行の英語表記は「Asian Infrastructure Investment Bank」(AIIB)。創設メンバー国は57カ国。

この投資銀行は、米国を中心とする国際通貨基金(IMF)や世界銀行(WBG)主導による世界経済秩序の安定に貢献するかどうか、米国の覇権を脅かすものかどうか、米国や同盟国は疑念が絶えません。

しかし、中国からみると米国主導型に疑念が絶えない点で同じです。

いずれにしても、21世紀の中国経済の動向は世界経済につよい影響力を与えつづけます。

この20年以上にわたり、中国はリープフロッグ型経済発展をしてきたといわれます。日本のキャッチアップ型経済発展とは違って、経済的な優位に立ったとき、リープフロッグ型の発展を遂げた国は他国・他地域をリードする実力をもちます。

まとめ

日本は1970年代のはじめに先進国の仲間入りをしましたが、2000年以降、先進国内での地位が低下しつづけています。

この原因は円安政策だけでなく、経済が成長しなかったことにもあります。中国工業化とIT革命という大きな変化に対応できなかったため、こうした事態になりました。

台湾や韓国も脱工業化の課題を追ったことは日本と同じでしたが、対中経済政策で中国の工業化とIT革命にタイアップできたのが日本の凋落とは異なる結果となりました。日本は高度成長期の経済発展に胡座をかきすぎて、すでに胡座から立てなくなりました。

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