「産業革命論」にみる繊維産業の盲点

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産業革命論は私たちの認識や発見に貢献してくれませんが、反面教師として役立ちます。

産業革命論には消費を大きく読み間違った議論がありました。衣服産業(アパレル産業)を消費部門の分析から外したのです。

この記事では経済史学での日本資本主義論争、とくに産業革命論にみる繊維産業の盲点を描きます。

アパレル産業の出遅れ

アパレル産業とは繊維を素材とした衣料品の製造販売業です。

近代日本では繊維製品と国産化輸入によって調達し、糸に加工する紡績段階と織物に加工する織布段階が発展しました。

これに対して衣料品の製造部門はあまり進展せず、繊維産業というと、繊維製品の栽培・製造、糸製品の製造、織物製品の製造にかぎられたわけです。

ですから、繊維産業というと、繊維・糸・織物の3段階をさし、4段階目の衣料品(衣服)は除外される傾向があります。

衣料品の製造販売は戦時期に伸びました。日本帝国政府の統計書「工業統計表」でも衣料品は繊維産業へ一時的に組み込まれました。

しかし、戦後の統計や業界秩序は戦前にもどってしまい、繊維産業とアパレル産業は区別して考えられました。

この背景のもと、日本資本主義論争にも、経済の本質をとらえられずに産業革命論をムダに論じる悪癖が生じました。

「産業革命論」にみる繊維産業の盲点

経済史学の論争のひとつ、日本の産業革命論は、山田盛太郎「日本資本主義分析―日本資本主義における再生産過程把握―」『山田盛太郎著作集第二巻』(岩波書店、1984年)をきっかけに戦後ながらく議論された日本資本主義論争の一つです。

必ずしも山田盛太郎は産業革命を重視したわけではありません。

イギリス産業革命とフランス政治革命にくらべ、日本資本主義における産業革命は「一時代としての決定的な産業革命として展開するの余地なく」(155頁)と述べました。

消費資料生産部門の包含部門

そして、産業資本の確立(産業革命の達成)の指標について、山田盛太郎が消費資料生産部門包含部門に言及してから、包括の範囲を後代の研究者たちにが延々と議論しました。

消費資料生産部門がどの部門まで包括するかの議論は、石井寛治『日本経済史』第2版(東京大学出版会、1991年、175~177頁)や杉山伸也「「日本の産業革命」再考」(『三田学会雑誌』慶應義塾経済学会、第108巻2号、2015年7月)で研究史が要約されています。

石井氏と杉山氏の要約から、山田の「消費資料生産部門」の包含部門についてさらに整理すると次のようになります。

消費資料生産部門の包含部門について、

  • 重工業と綿工業の二部門にみる二部門定置説派
  • 綿工業の一部門にみる綿工業中心説派

の違いです。

重工業と綿工業の二部門定置説派

まず、消費資料生産部門の包含部門を重工業と綿工業の二部門にみる二部門定置説派をみます。

  • 山田盛太郎…衣料生産
  • 石井寛治…繊維工業衣料生産(石井『日本経済史』176~177頁)
  • 神立春樹…衣料生産=綿工業・絹工業(神立春樹『産業革命における地域編成』お茶の水書房、1987年、7頁)

綿工業のみの綿工業中心説派

ついで、消費資料生産部門の包含部門を綿工業の一部門にみる綿工業中心説派をみます。

  • 大内力…衣料生産(石井『日本経済史』1991年、182頁)
  • 高村直助…綿糸紡績業綿織物業(高村直助『明治経済史再考』ミネルヴァ書房、2006年、178~179頁)

山田盛太郎と農商務省にみる綿工業のとらえ方の違い

産業資本の確立(産業革命の達成)指標について、山田盛太郎は衣料衣料生産を重視しました( 山田『著作集第二巻』19頁)。

惨苦の茅場しか語れない山田盛太郎

そして、衣料と衣料生産を行なう部門にあげたのが次の2部門です。

  • 棉作・紡績・綿織の綿業部門
  • 養蚕・製糸・絹織の絹業部門

そして、繊維原料調達、糸生産、織布の三分化工程に注目して、綿・絹2部門をいくつかの段階にわけてポジショニングしました。

綿では

  • 棉作の凋落
  • 紡績業の興隆
  • 綿織業の編制

絹では

  • 養蚕の普及
  • 製糸業の興隆
  • 絹織業の編制

繊維原料調達、糸生産、織布の三分化工程を山田自身は「原料取得から加工精製に至るまでの諸分化工程」と述べています(山田『著作集第二巻』48頁)。

これらの分析項目のうち、綿織物業の編制で山田は農商務省工務局編『織物及莫大小に関する調査』(工政会出版部、1925年、394~399頁)を参照しました。

そして、問屋制家内工業や零細工場の事例として綿織物の久留米絣を引っぱってきました(山田『著作集第二巻』22~47頁)。

この結論が惨苦の茅場の確認でした(山田『著作集第二巻』34頁)。

山田盛太郎は、たいていの論文や本で惨苦の茅場ばかり述べています。

資本主義経済や産業革命は労働者を劣悪な労働状態に落とし込むという先入観から抜けられなかった人が山田盛太郎でした。

他方、山田が依拠しまくった農商務省工務局編〔1925〕は山田よりも広い視野をもっていたのです。

山田盛太郎より広い農商務省工務局の視野

農商務省はいまの経済産業省の前身の一つです。

農商務省工務局編『織物及莫大小に関する調査』(工政会出版部、1925年、394~399頁)が調査対象とした部門は、綿織物業・絹織物業・メリヤス業の3部門でした。

このうちメリヤス業の箇所で、

  • 生地を経由せずに原料糸から直接に衣料品を製造する編立
  • 原料糸からメリヤス生地製造工程と裁縫工程を経て衣料品を製造する裁縫

を詳述しています。

そして、問屋および「下受屋」(下請)が担うミシン縫製についても言及しているのです(394~399頁)。

このメリヤス業に関する叙述を山田盛太郎は参照せず、衣料品では足袋に言及しただけでした(山田『著作集第二巻』50・51頁)。

アパレル産業を分析の対象外にした経済史の罪

ところで、二部門定置説派と綿工業中心説派には綿糸紡績業と綿織物業などの繊維産業にたいし、絹と綿の2繊維の捉え方に違いがあります。

議論を分かりやすくするために、絹(シルク)と綿(コットン)の違いは軽く触れるだけにして、両派が想定する「消費資料生産部門」のみを挙げます。

すると、

  • 紡績業(綿がメイン)
  • 製糸業(絹がメイン)
  • 織物業(綿がメイン)

の3部門を消費資料生産部門とし、アパレル産業(衣服産業)は対象外でした。

イギリスの産業革命モデルを自己流に解釈した日本資本主義論争や産業革命論の限界は次のとおりです。

すでに20世紀初頭の日本にはかなりのミシンが輸入されていて、アパレル産業も都市部で発展しはじめていたにも関わらず、イギリスの産業革命で中心だった紡績業と織物業だけに目を奪われました。

目の前にあるミシンとアパレル産業を研究の対象とせず、紡績業と織物業だけに固執した研究スタンスは、まさに机上の空論です。

これはアパレル産業の不幸であり、経済史の罪です。

別の記事に書いたように、アパレル産業の不幸は他にもありました。

国際分業や世界貿易という視野の広さは、20世紀の間にほとんど研究されてしまいました。

そして、20世紀末から一つの国のなかでの経済発展を産業革命や工業化と結びつけて考える傾向が強まりました。

まとめ

産業資本の確立(産業革命の達成)指標について、日本の経済史学ではくりかえし論争をつづけました。

議論の派閥が形成されましたが、派閥をとわず論者たちは衣料と衣料生産を重視しました。

衣料とは衣服や衣料品の材料のことですから、衣服やアパレル産業は無視されました。

20世紀初頭の日本にはミシンが輸入されていて、都市部ではアパレル産業が発展しはじめていたにも関わらずです。

目の前にあるミシンとアパレル産業を研究の対象とせず、紡績業と織物業だけに固執した研究スタンスは、まさに机上の空論であり、アパレル産業の不幸でもありました。

日本資本主義論争はトインビーとマルクスをモデルに議論としての途上国日本を検討しました。

しかし、アパレル産業とミシン普及に気づかず現状としての途上国日本をとりあげませんでした。

このことは、山田盛太郎より広い農商務省工務局の視野がはっきり示しています。マルクス主義研究者や左翼研究者たちよりも省庁のほうが視野が広く、深い考察をしていることは、よくある話です。

日本資本主義論争は議論のための議論であって、当事者以外に誰も得をしない、当時からして時代錯誤な議論でした。

産業革命論は私たちの認識や発見に貢献してくれませんが、反面教師として役立ちます。

経済史学の研究者たちがどのように産業革命論を述べてきたかをたどり、経済史学にみる左翼ナショナリズムの形成を論じた記事もご覧ください。

余談:大学入試センター試験にみるアパレル産業の不幸

2013年度の大学入試センター(センター試験)「日本史A」第3問と「日本史B」第5問で「1885年に専売特許制度が成立した。この制度が未整備だった時代に、紡績機械のガラ紡を発明したが、大量の模造品で困窮におちいった者」として、臥雲辰致か豊田佐吉かを選択する問題が出ました。

臥雲辰致は糸の製造に関する紡績メカニズムの発明者、豊田佐吉は織物の製造に関する織機メカニズムの発明者です。衣服(アパレル)の製造に関するミシンのメカニズムを日本で最初に発明した内田嘉一には触れられませんでした。

内田嘉一のミシンは裁縫機と題し、ミシンでは日本帝国特許局が初めて発行したものです。1890年に申請、1891年に発行されました。特許番号は1111番。

内田嘉一のミシンや日本のミシン特許について次のブログが詳しいです。

 

 

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