キリスト教伝来から400年かかった日本語の統一

バーチャル経済史
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16世紀中頃の日本史ではキリスト教の伝来が大きな出来事となりました。

外来文化が日本政治史から日本語の歴史までを揺さぶることになります。

キリスト教の伝来をきっかけに日本では南蛮キリシタン文化が広がりました。その一つが活版印刷の技術で、これが導入されて以降、さまざまな本が書かれました。

ここでは、キリスト教の伝来やキリシタン文化を復習し、その頃以降に出版された本を紹介して、ローマ字の歴史をたどります。

キリスト教が普及した条件はさまざまですが、宗教の理念や経典を広めるには発話や文字によるコミュニケーションが不可欠です。

このため、キリスト教宣教師たちは聖書の現地語翻訳や現地語通訳の問題に取り組みました。

異文化コミュニケーションの実践例として、日本語教育に従事する日本語教師の方々にも読んでほしい記事です。

高校日本史の復習:キリスト教の伝来

日本史実力強化書』158頁をもとにキリスト教の伝来を復習します。

おもな宣教師

  • ルイス・フロイス…『日本史』を執筆
  • グネッキ・ソルディ・オルガンティノ…京都に教会堂南蛮寺を建立
  • アレッサンドロ・ヴァリニャーノ天正遣欧使節の派遣を推奨、活字印刷術(活版印刷術)を伝授
南蛮寺跡 | 動画で見るニッポンみちしる | NHKアーカイブス:キリスト教布教の中心だった京都を紹介。南蛮寺跡(中京区姥柳町)をはじめ、「都の南蛮寺図」(神戸市立博物館蔵)、南蛮寺の礎石(同志社大学蔵)、司祭を描いた線画<南蛮寺跡から発掘されたすずり>(同志社大学蔵)、南蛮寺のものとされる鐘(妙心寺春光院・右京区)。キリストの神デウスを意味する「だいうす町(丁)」が京都にはいくつか存在しました。これらには教会が建っていたそうです(慶長天主堂跡の石碑の映像あり)。宣教師たちの日記に残る織田信長のエピソードも少し。京都はキリシタンの歴史が刻まれた街と述べて〆。
南蛮寺跡|地域|NHKアーカイブス
南蛮寺は天正四年(1576年)、都の京に建てられたキリスト教会でした。織田信長はこの教会の建設を援助し、たびたび見物にも訪れた、と宣教師たちの記録に残っています。 (この動画は、2006年に放送したものです。)

おもな教育機関

  • セミナリオ(一般教育)
  • コレジオ(宣教師養成のための高等教育)

キリシタン大名

  • 大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、高山右近、小西行長ら

仏寺めぐりで知ったカトリック玉造教会(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)の正面西側に高山右近像と妻の細川ガラシア像があります。

キリシタン資料

キリシタン資料とは、16世紀後半から17世紀前半にかけて来日したキリスト教宣教師が中心となって作成した文献の総称です。

  • 布教に使うキリスト教の教義書を日本語で書いた文献
  • 宣教師が日本語を学ぶための辞書・語学書(文法書)・読み物

などがあります。

辞書類や語学書類から、当時の日本語の言葉の意味や使い方に関する情報が得られます。たとえば、ポルトガル式ローマ字のつづり方で書いてある資料から、当時の発音がわかります。

このように、キリシタン資料は日本語に関する歴史的な資料として重要です。

日本語教育史日本語学習史の観点からは、布教目的のために日本語を研究・学習・教育したキリシタン語学(宣教言語学)の成果としてキリシタン資料を扱います。

キリシタン資料の代表的なものをあげます。

  • 日葡辞書』…日本語をローマ字でつづり、その説明をポルトガル語で記述。著者不詳。
  • 日本文典』『日本小文典』…ジョアン・ロドリゲスが執筆した、イエズス会の日本研究の集大成。『日本教会史』も執筆。

日本語と日本の歴史を知るために作られた『天草版平家物語』、イソップ物語をもとにした『天草版伊曾保物語』、 漢字字書の『落葉集』 などもあります。

キリスト教と南蛮キリシタン文化の広まり

キリスト教の広まり

16世紀半ばに日本へ伝わったキリスト教(カトリック教)はイエズス会宣教師たちの布教活動をきっかけに広まりました。

有名なイエズス会宣教師たちは「おもな宣教師」にあげた3名です。

  • ルイス・フロイス…カトリック司祭・宣教師・イエズス会員。ポルトガル生まれ、1597年、大村領長崎の神学校(コレジオ)で死去。
  • アレッサンドロ・ヴァリニャーノ…カトリック司祭・宣教師・イエズス会員。イタリア生まれ、1606年にマカオで死去。
  • グネッキ・ソルディ・オルガンティノ…カトリック司祭・宣教師・イエズス会員。イタリア生まれ、1609年、長崎で死去。

16世紀後半、キリスト教(カトリック教)は九州や近畿などで信者が10万人を超えたといわれます。

大名や国衆のなかにも入信する者がいて、彼らが家臣や領民にたいして信仰を広めたこともあり、また、戦乱や飢饉に苦しむ貧民が救済をもとめて入信した例もあります。

キリスト教に入信した大名たちをキリシタン大名といいます。

1582年、ヴァリニャーノの勧めでキリシタン大名の大友義組・大村純忠・有馬晴信が伊東マンショ・千々石ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノの少年使節4名をローマ教皇グレゴリウス13世のもとへ派遣しました。この4名を天正遣欧使節といいます。

南蛮キリシタン文化の広まり

天正遣欧使節は、1582年に長崎港を出発して1590年に同港へ帰港しました。持ちかえった西洋文物に活版印刷機(グーテンベルク印刷機)、西洋楽器、海図がありました。

キリスト教や南蛮貿易をとおして、日本ではヨーロッパの文化が流入しました。この時期の欧州文化を南蛮キリシタン文化南蛮文化キリシタン文化)といいます。

  • 天文学、医学、地理学、油絵や銅版画の技法、西洋音楽などの知識
  • ポルトガル人風の衣装

活版印刷術の伝来

キリスト教の普及で見逃せないものが金属製活字と印刷機具です。イエズス会のヴァリニャーニがもち込みました。

活版印刷術の伝来によってキリスト教の布教活動がすすみ、近世日本では出版活動がさかんになっていきます。

それとともに、ローマ字や平仮名交じりの活字などが使われ、キリスト教の教義書、日葡辞書、『平家物語』『伊曽保物語』などの文学書が出版されました。

これらイエズス会がおもに九州地方で刊行した活字本の総称をキリシタン版(天草版)といいます。

他方、朝鮮出兵にともない朝鮮から銅製の活字と印刷機具が伝えられました。これを模倣作成した木製や銅製もふくめ、活字によって書籍出版が活発になりました(たとえば後陽成天皇の命令による慶長勅版)。

この結果、朝廷や有力寺院で蓄積されてきた古典文学や学問の復興が進展していきます。

「活版印刷術の伝来」はおもに次の参考書の158頁を参照しました。

ローマ字の普及と定着

16世紀中頃、ローマ字はキリスト教布教とともに開発されました。

キリシタン版(天草版)をとおして日本で普及していったローマ字の進展をたどります。

ローマ字の普及

初期のローマ字はラテン文字で表記されました。

16世紀後半、イエズス会が日本でキリスト教を布教するためにローマ字書きキリシタン本を出版したのが始まりです。当時のローマ字は日本語の発音をポルトガル語で表記したものでした。

ローマ字の定着

近世

1709年、新井白石が『西洋紀聞』のなかでローマ字を優秀な文字だと述べました。

これをきっかけに、多くの蘭学者たちがオランダ式のローマ字を学びました。

そのあと、国学者漢学者とのあいだで漢字廃止論で論争が起きたり、洋学者によってローマ字支持論が説かれたりしました。

近代

19世紀なかば、近代になると日本はキャッチアップ型経済発展をめざします。

当時の先進国(欧米列強)に追いつく(キャッチアップ)ために有識者がローマ字を採用すべきだという主張が広がりました。これを発端にローマ字論が高まりました。

  • 1884年、ローマ字論者たちが「羅馬字会を起こす趣意」を発表し、翌1885年に「羅馬字会」を結成。
  • 1905年、ローマ字論者たちが「ローマ字ひろめ会」 を組織して、 英語に沿した音声的単音文字の俗称ヘボン式(のち標準式=改正ヘボン式)を採用。
ヘボン式ローマ字

「ヘボン」という名称は、ローマ字引きの和英辞書『和英語林集成』を作成した人物ジェームス・カーティス・ヘボンから借用したものです。

ヘボン自身が『和英語林集成』の第3版(1886年)で「羅馬字会」式のつづりを採用したため「ヘボン式」といわれるようになりました。

ヘボン式ローマ字のメリットとデメリット…英語を知らない日本人でもカタカナ表記の英語(ヘボン式)を読むと英語の発音をある程度再現できます。この特徴はメリットともデメリットともなります。英語の発音を少し再現できるので楽な反面、日本人の語学力がそこで止まる面もあります。
日本式ローマ字

他方、1885年に田中館愛橘が五十音図に沿った日本語の音素体系で日本式ローマ字を提唱しました。

また、1909年、「日本のローマ字社」が「ローマ字ひろめ会」から独立し、1921年に「日本ローマ字会」と改名して日本式ローマ字を主張しました。

ヘボン式と日本式の違いはサ・ザ行とタ・ダ行にあります。これらの違いをまとめたのが次表です。(日本式と後述の訓令式の違いも添えます)

ヘボン式日本式訓令式
サ行
sasa
shisi
susu
sese
soso
shasya
shusyu
shosyo
タ行
tata
chiti
tsutu
tete
toto
chatya
chutyu
chotyo
ザ行
zazaza
jizizi
zuzuzu
zezeze
zozozo
jazya
juzyu
jozyo
ダ行
dadada
jidi
zudu
dedede
dododo
jadya
judyu
jodyo
ワ行
wawa
wii
uu
wee
woo

さて、ヘボン式派と日本式派はするどく対立しました。

対立は40年以上にわたり、このあいだ日本語のローマ字つづりがとても混乱しました。

訓令式ローマ字

1930年11月から文部省は「臨時ローマ字調査会」を設けて標準式(ヘボン式の後身)と日本式のつづり方を統一する検討に入りました。

その結果、1937年に内閣訓令によって公認のローマ字表記方式が公布されました。これが訓令式ローマ字です。

訓令式は日本式を現代日本語の音素体系に近づけようと整理したもので、ザ行とダ行に改良が加えられました(前表)。

〔ヘボン式→日本式→訓令式〕の流れを系統的発生からみると、〔単音文字→音節文字→音系文字〕と変化しました。

系統・体系の異なる複数言語を使うことからくる混乱です。また、正解をめざしながら溢れた情報に振り回された点で近代らしい混乱ともいえます。

戦後

1946年、第1次アメリカ教育使節団が文部省にたいして「民主的公民の資格と国際理解を助長する文字」としてローマ字採用を勧告しました。

翌1947年、文部省は通達を出し、つづいて「ローマ字教育実施要項」で姿勢を示しました。

これによって、ローマ字は国語教育と直結した位置づけをもっていきました。

  • ローマ字を教える
  • ローマ字から日本語を考察して言葉への関心も高める
  • ローマ字によって分かりやすい日本語をつくる

皮肉なもので、漢字、平仮名、片仮名を使い放題にしてきた日本語(の歴史)は、ローマ字を統一軸として編成されました。

まとめ

以上、キリスト教の伝来やキリシタン文化を復習し、その頃以降に出版された本を紹介して、ローマ字の歴史をたどりました。

16世紀中頃、ローマ字はキリスト教布教とともに開発されました。

キリシタン版(天草版)をとおしてローマ字が日本で普及していった方向は、1946年・1947年の文部省通達により「ローマ字教育実施要項」でようやく姿勢を固めました。

漢字、平仮名、片仮名を使い放題にしてきた日本語(の歴史)は、キリスト教伝来とともに開発されたローマ字を統一軸として編成されました。

日本史と日本語史をくらべると似た展開を感じます。

日本史では11世紀ころに律令体制が崩れ、19世紀末に憲法体制が導入されるまで、王朝や国家を補償する「律」や「法」がありませんでした。日本語史でも古典日本語が崩壊した中世(鎌倉・室町時代)以降、「文法」が確立せずに、第2次大戦後まで野ざらしでした。

子供のころ積み木やブロックで遊んだ後、よく祖母や母から「後片付けをしなさい」と言われたものです。

日本史や日本語史を勉強していると日本王朝も日本帝国政府も後片付けのできない人たちが担ってきたのだと痛感します。

戦後に日本国政府はアメリカ教育使節団から、ローマ字を基準として国語を設定するよう指示され、そのとおりに動きました。この作動が後片付けになれば良いのですが…。

とにかく、「法」という語のもつ深みを生涯学習として味わっていくことが大切だと思います。

日本語の歴史

日本語の歴史(日本語史)を総説と時代史でまとめています。

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